T3ヴァナゴンでキャンプしたある日のこと。

エンジンの換装を含めたOHとほとんど全ての補機類の交換を終え、ようやく、一昨年のブレーキ(2004年7月4日の記事)に端を発する、リフレッシュ計画は補機類の交換をもってようやく一段落をした、よねたぶん。リスタートは98,237mileからとなった。
まあ次に何が来るかは予測はついているのだが、しばらくはT3を使って遊ぶということを楽しみたい今日この頃(笑)。
というわけで、とりあえず一回総括したいと思う。もちろん、これは僕の個人的な思いということをまずお断り申し上げておきたい。

ともかくも予想以上の重修理となった我がT3に根気よく対応してくれた岡田メカ、様々なアドヴァイスをいただき、伺うたびににゴッドハンドを見せてくれたDr、ドナーエンジンやその他貴重なパーツを売っていただいたOさん、パーツ取り寄せにいろいろとご迷惑をおかけしたUさん、その他アドヴァイスをいただいた方々に深くお礼申し上げます。

さて、僕の方の話しに戻りますと、この一連の修理で、ヒドイ状態になったのは必ずしも車だけに原因があるわけではないんだな、と確信したわけです。

動力装置のほとんどを直し、または換装することになってしまった我が車。なぜにこんな状態に陥ってしまったのか。ドイツの車はそれほどまでに脆弱なのだろうか。

確かに脆弱なところも多々あるようです(笑)。日本車では信じられないようなトラブルや、考えうる耐用年数の前に交換が必要になる部品もあるようです。

「日々是メンテナンス」

どっかの予備校みたいですが、結局、新車のときからこの特性を十分納得した上でつきあって来たのかどうかというのが、今の状態にそのまま出て来てしまったと言うことなのでしょう。

そう言っても、通常のメンテナンス項目はそう多いわけではなさそう。少なくともエンジンオイル、ATF、冷却水の管理と交換をしっかりやるということと、ホースやガスケット類は応急処置で放っておくのではなく、きちんと部品交換をする、ということをやっていれば、僕の車のような状態にはならなかったと思うのです。そして通常の経年劣化による部品の交換を「壊れる前に」やること。中古で買う場合は15年、16万キロにもなれば当然要交換の部品は相当数になることを納得すること。

さらに、この特殊なエンジンとレイアウトを持つ車の修理のノウハウを持っているショップを知っている。(か、もしくは自分自身がそのノウハウを持っているか・・・僕は無いけど)ということも重要ですね。

このノウハウ、このT3という車は今までほとんど共通化されていなかったのではないでしょうか。いや、今もまだ試行錯誤が続いていることもあるくらいなのです。
このノウハウの欠如は、販売時期が短すぎたということもあるかも知れませんね。車の生産期間自体20年に満たず、さらにそのうち水冷で作られたのはわずか6年程度。日本に正規輸入されたのは当時のヤナセで、これもカラベルのみ。カーセンサーネットによると1990年2月から(エンジンはSOHCになっているが、OHVの間違いでしょう)同年12月までとなっている。日本でも売られたのは1年にも満たない。そんな短い期間で売れた数自体たいしたことはないと思うし(調べているのだけれど、なかなか資料が見つからない)、新車を販売している期間に重大修理が頻発しているとも思えないので、修理に関する十分なノウハウを積み上げられたのかわかりません。

今まではどうかというと、横断的な愛好者のクラブがあるわけでもなく、専門のショップも数えるほどしかない状況で、維持・整備のノウハウは横のネットワークがないためにショップによってバラツキが大きく、それはオーナーによっても同じ状況なので、我流で対応せざるを得ない状況だったのでしょう。

こうした状況の中で「我がT3」を維持していくことは、ある意味自分で自分の車のマニュアルを作っていくとも言えます。これを「面白いこと」と思えるかどうかが、(修理代のことはとりあえず置いておいて)維持するモチベーションを持ち続けられるかどうかの分かれ目だと思うのです。おそらく国産ミニバンを新車で買った場合の損益分岐点は通過してしまっているでしょうね。しかしT3ウェストファリアを所有し、この車だからこそ広がる行動範囲・交友範囲は、横軸に「付加価値」という大きなメモリが追加されると思うのです。